教室の中で、先生の話を聞きながらも「分からない」と感じ続けている子どもがいます。
周囲の子どもたちがうなずき、ノートを書き進めていくなかで、自分だけが理解できていない。
問題を解いてもいつも正解にならない。分からない。
小学生の頃の私は、そんな子どもでした。
大学英語講師はむ先生英語講師の「はむ先生(村上里実)」です。教歴は15年、大学で非常勤講師を務め、第二言語習得を専門としています。
教室で過ごす「分からない」時間は、子どもにとって決して楽しいものではありません。
むしろ、自信や学ぶ意欲を静かに奪っていくことさえあります。
子どもは、ときに自分の考えを言葉にできません。
理解できないという感覚さえ、うまく説明できないこともあります。
だからこそ、「学ぶとは何か」を知っている大人の関わりが、とても大切になります。
保護者には、何ができるのでしょうか。
テストを隠してしまう子どもの心理については、こちらの記事で詳しく書いています。
勉強が分からない子どもだった小学生|私はテストをごみ箱に捨てた
小学生の頃、私は勉強が分からない子どもでした。
小学校2年生のときには返されたテストを、親に見せることができず、ごみ箱に捨ててしまったことがあります。
怒られるのが怖かったわけではありません。
期待に沿えない「勉強ができない自分」を見せられなかったのです。
学校生活を送る中で、「どうして自分だけできないのだろう」という気持ちが積み上がっていったのを覚えています。
けれど、あのときの私は、努力次第で、この状況を乗り越えられることすら知りませんでした。
勉強が分からないまま過ごす教室で、子どもは何を感じているのでしょうか。
勉強が分からない子どもが静かに失っていくもの
勉強が分からない時間が続くと、子どもは少しずつ自信を失っていきます。
小学校に入学したばかりの子どもにとって、テストの意味はまだよく分からないものです。
しかし次第に、テストや成績の意味を理解し始め、その重要性を子ども自身も感じるようになります。

周りの子は丸が付いているのに、自分だけついていない。
説明を聞いても、何を言われているのか分からない。
次第に分からない勉強を家でもやらされる。
泣きながら勉強をする。
それでも簡単にできるようにはならない。
私は次第に、「どうせ自分には無理だ」と思うようになりました。
それは決して、大きな音を立てて起こる変化ではありません。
とても静かに進んでいきます。
気づいたときには、すでに自信を失っていることもあります。
子どもの中で、「分からない」はやがて「できない」へと変わっていくのでしょう。
勉強が分からないことが苦痛になるのは評価が加わるとき
「勉強が分からない」だけなら、子どもはまだ耐えられます。
子ども本人は、まだそれを問題だと感じていないこともあるでしょう。
分からない状態が続いているだけなのですから。
しかし学校という社会に入り、テストや成績といった評価が加わると、分からないことは苦痛へと変わります。
特に、保護者が分からないことを問題だと捉えた瞬間に、子どもは「分かっていない子」になります。
結果が数字で示されるたびに、自分は足りていないことを突きつけられることになるでしょう。
テストを見せるたびに、親の顔が曇るのです。
子どもは、その小さな変化を見逃しません。
子どもは「どうしたらいいか」分からない
勉強が分からないとき、大人は「分からないなら聞けばいい」と考えがちです。
けれど子どもにとって、それは簡単なことではありません。
何が分からないのかが分からない。
どこでつまずいているのかも言葉にできない。
そんな状態のまま、授業だけが進んでいきます。

先生は集団を相手に授業をしているのですから、すべての子どもに目を配り続けることは簡単ではありません。
周囲の子どもたちが理解しているように見えるなかで、「分かりません」と伝えることには勇気がいります。
ノートを写すだけの時間が増えていく子どもも少なくありません。
静かに座り、分かったふりをして時間をやり過ごすことは難しくありません。
助けを求める方法すら分からず、ただ時間だけが過ぎていく。
自分が「分かっていない子ども」だと突きつけられるのは、テストが返された、そのときだけです。
勉強が分からない子どもを救うのは、「分かる経験」だけ
励ましの言葉は子どもを支えます。
けれど、言葉だけで理解にたどり着くことはありません。
子どもが前を向くのは、「分かった」と実感できた瞬間です。
理解できた経験は自信となり、子どもを次の学びへと向かわせます。
学びの輪からこぼれ落ちないうちに「分かる」ことが、子どもを支えます。
分からない時間が続くほど、学校は楽しい場所ではなくなる
学校生活の多くは、学びの時間で成り立っています。
友達と過ごす時間が楽しくても、授業が分からない状態が続けば、1日の大半が前向きになれない時間になってしまいます。
「勉強が分かる」ことは、学校を前向きに過ごすための土台だと感じます。
勉強は積み重ねで成り立つものです。
低学年の学習があやふやなままでは、高学年の内容を理解することは難しくなります。
「分からない」時間が長くなるほど、分からない内容が多くなり、挽回するのにも時間がかかることになります。
だからこそ、早い段階で気づき、行動に移すことが大切なのだと思います。
言葉だけでは、理解には届かない
「大丈夫」「次はできるよ」といった声かけは、子どもを支えます。
しかし、すでにつまずいている子どもに必要なのは、理解にたどり着くための具体的な支援です。
どこでつまずいているのかを見極め、分かるところまで戻る。
その積み重ねが理解を生みます。
家庭で取り組もうとしても、「分からない」と泣いてしまうお子さんもいるでしょう。
それはおそらく、取り組んでいる内容が難しすぎるからです。
もう少し前に戻り、無理なくできるところから始めることが大切です。
1年生の内容が難しく感じられるときは、その前の段階でつまずいていることもあります。
言葉の理解が追い付いていないように感じるときには、絵本の読み聞かせから始めるのもよいでしょう。
いちど立ち止まって、「どこから分からなくなったのか」をお子さんと一緒に探してみることが、理解への第一歩になるかもしれません。

また、お子さんが低学年でつまずいている場合には、勉強そのものが「取り組むもの」としてまだ根づいていないこともあるでしょう。
年齢に応じて知識を深めていくことは、子どもがこれから生きていくうえで欠かせない力となっていきます。
まだ早いのではと感じられても、勉強は「取り組むもの」として位置づけていくことも大切だと思います。
私は、毎日ごはんを食べて身体を大きくするように、勉強によって知っていることやできることを少しずつ増やしていくことが、世界を広げていくのだと話しています。
必要なのは、子どもを「分かるところ」まで連れていく伴走
子どもの学びにおいて本当に大切なのは、放っておくことでも、ただ励ますことでもありません。
分かる地点まで一緒に進むことです。
勉強の仕方や、物事の考え方そのものをまだ知らないこともあります。
伴走とは、隣で見守りながら、必要なときに手を差し伸べることです。
ここはこう考えるのだと、その考え方を言葉にして伝えていくことが大人の役割なのだと思います。
子どもは成長するにつれて、「本来は分かっているはずのこと」が分かっていないのだと気づくようになります。
それでも分からないからこそ、子どもは困っているのです。
小学生の子どもは、自分で解決する力も、助けを求める術もまだ育っている途中です。
子どもが自分の力で歩けるようになることを目指し、隣で支える存在でありたいと、私は思っています。
勉強が分かる子どもと、分からない子どもの違いはどこにあるのか
同じ授業を受けているのに、「よく学べる子」と「なかなか学べない子」がいます。
なぜこの差は生まれるのでしょうか。
生まれ持った能力や気質に違いがあるのは、当然のことでしょう。
しかし、最初から何でもできる子どもは、決して多くありません。
学びの深さを分けているのは、特別な才能というより、子どもが「学べる状態」にあるかどうかなのではないかと感じています。
では、「学べる状態」とはどのような状態を指すのでしょうか。
学べる状態が整っているか
教師としてこれまで多くの子どもたちを見てきたなかで、私は学力そのものよりも、「学べる状態」が整っているかどうかが大きく影響しているように感じています。
これは大学生になるまで成長しても、大きく変わるものではないと思います。

学べる状態とは、特別な能力を指すものではなく、むしろ、どの子どもにも育てていくことができる土台のようなものです。
たとえば、
- 話題とされていることを理解できるだけの基礎知識がある
- ひとの話を最後まで聞ける
- 少し分からなくても、「やってみよう」と思える
- 間違いを指摘されても受け入れられる
- 新たに「知る」ことを楽しめる
こうした姿勢が育っていくことで、子どもは初めて学びに向かうことができます。
これらは一見すると当たり前のことのように思えるかもしれません。
けれども、これらが自然にできる状態にある子どもは、決して多くはありません。
子どもの学力を伸ばすための教育環境は、学校教育の中で用意されています。
だからこそ、小学校に送り出す前に「学べる土台」が育まれていることが大切なのです。
私は、学力の差の多くは、この土台が育まれているかどうかによって生まれるのではないかと感じています。
才能か努力か|本当に大切なことは何か
子どもの学習を考えるとき、私たちはつい「もともとできる子だった」「努力して身につけた」と理由を探したくなります。
そして、大人が手をかけなくても自然にできることの方が、どこか望ましいもののように評価されがちです。
けれども、本当に大切なのはそこではありません。
教えてできるようになったとしても、教わらずにできるようになったとしても、どちらでもよいのです。
子ども自身が「分かった」「できた」と感じられる経験こそが、学びの土台を育てていきます。
理解できたという実感は、「もう一度やってみよう」という気持ちにつながります。
できたという手応えは、「次にも挑戦してみたい」という意欲を生みます。
学びを前に進めるのは、生まれ持った才能だけでも、強い努力だけでもありません。
自分はやればできるのだと感じられる、小さな成功体験の積み重ねです。

子どもが新しい知識に触れ、この広い世界を知ることは楽しいのだと感じられる価値観を育てていくことも、大切にしたいものです。
親が勉強はつまらない、やりたくないものだと考えていたら、子どもは興味をもつでしょうか。
子どもが困っているときには手を差し伸べ、任せられる場面では過度に手を出さず見守る。
支援することと任せることは、どちらも子どもの学びを支える大切な関わり方なのだと思います。
その積み重ねが、子どもを「自分から学べる状態」へと導いていくのだと、私は思っています。
能力だけでは、人は伸び続けられない|自分に合った学び方を知る
生まれ持った能力だけで、最後まで前に進み続けられる人はいません。
どれほど力のある人であっても、どこかの地点で努力が求められるようになります。
そして、本当に伸びていくのは、その努力を苦労として抱え込むのではなく、自分なりの方法で続けていける人なのではないでしょうか。
努力というと、「頑張ること」や「我慢すること」を思い浮かべるかもしれません。
けれども、本来の学びは、ただ耐えるものではなく、工夫しながら前に進んでいく営みです。
だからこそ、どんな子どもにも、「どのように学べば自分は理解しやすいのか」「どのような方法だと力を発揮しにくいのか」といった、自分自身の学び方を少しずつ知っていってほしいと思います。
得意な学び方を知ることは、自信につながります。
不得意な学び方に気づくことは、必要以上に自分を責めないための支えになります。

どれだけ努力をしても、克服できないことはあるものです。
でも、工夫をしていくうちに、別の方法で似た結果を出すことはできると思います。
たとえば、私は英語を教えていますが、実は、英語のスペルを覚えることがあまり得意ではありません。
簡単な単語でさえ、何度書いてもなかなか定着しないのです。
それでも、その英語を使って話すことはできますし、読むこともできます。
板書が必須ではない大学で授業をするうえでは、大きな支障はありません。
もちろん、何でもできるに越したことはありません。
ただ、すべてを完璧にできなくても、自分に合った方法を見つけることで、できることは確かに広がっていくのだと感じています。
自分に合った学び方を知り、無理のない形で努力を重ねていくこと。
子どももまた、同じなのではないでしょうか。
伸び続けられる人とは、「能力の高い人」というよりも、「自分に合った学び方を知っている人」なのかもしれません。
わが子を「勉強が分からない子どもかもしれない」と考えて関わる理由
「うちの子は、たぶん大丈夫だろう。」
そう信じながら子育てをしている保護者も多いはずです。
もちろん、子どもの力を信じることはとても大切だと思います。
けれども私は、あえてわが子を「勉強が分からない子どもかもしれない」という前提に立って関わるようにしています。
それは、子どもの可能性を低く見積もるためではありません。
最初から「分かるはず」と考えてしまうと、つまずきのサインを見逃してしまうことがあるからです。
放っておいても伸びる子かどうかは、誰にも分からない
私はこれまで多くの子どもたちと関わってきましたが、親として育てている子どもは一人です。
だからこそ、わが子が「手をかけなくても伸びた子どもだったのかどうか」を確かめることはできないのではないかと思っています。
なぜなら私は、「放っておいたら伸びないかもしれない」と考えながら、子どもを育ててきたからです。
子育てはやり直しがききません。
子どもに向き合う時間は、いつも一度きりです。
親自身が学習面で大きく困った経験がなければ、「うちの子もきっと大丈夫」と信じて育てることもあるでしょう。
けれども、つまずいた過去のある私は、何もせずにただ見守るという選択はできませんでした。

もちろん、放っておいても伸びていくのであれば、それでもよいでしょう。
けれども、私のように一度伸び悩んでしまうと、あとから巻き返すのは決して簡単なことではありません。
私は、どちらの場合でも子どもが前に進んでいけるように、最初から少しだけ手をかけることを大切にしてきました。
どの子どもも、少しの支援があれば伸びていく可能性があると信じているからこその関わりです。
子育てとは、「放っておくか、手をかけるか」を選ぶことではなく、その子にとって必要な関わりを見極め続けることなのかもしれません。
国語と算数は「9割分かる」状態で教室へ
第二言語習得を専門に学んできた者として、ことばの大切さを強く感じています。
だからこそ、子どもの思考を支える日本語については、意識的に時間を取ってきました。
考えるためには、言葉が必要です。
土台となる言葉が十分に育っていなければ、学びの理解も深まりません。
そして、ことばの習得には時間がかかります。
日本語はとくに複雑な言語の一つであり、日常会話だけで十分に言葉を身につけることは決して簡単ではありません。

語彙、表現力を高めるためにも、やはり本を読むことは大切です。
漢字を身につけることも、学びを支える大きな力になります。
漢字が読めなければ、本を自分の力で読み進めることも難しくなります。
また、算数においても同じことが言えます。
計算そのものに時間がかかってしまうと、思考そのものが止まってしまうからです。
基礎的な計算は、できるだけスムーズに行える状態にしておく必要があるでしょう。
すべてを完璧にしておく必要はありません。
けれども、授業の大部分を「分かる」と感じながら受けられる状態で教室に向かうことは、子どもの安心感につながります。
特に、親が手助けしやすい小学校のうちは、その状態を整えてあげたいものです。
その安心感こそが、「学ぶことは難しすぎない」「もう少し考えてみよう」という前向きな姿勢を育てていくのではないでしょうか。
知っている内容の授業は、本当につまらないか
学校の授業で、すでに知っている内容を学ぶことは、子どもにとって退屈なのでしょうか。
そのように心配される保護者の方もいるかもしれません。
けれども私は、「分かる」という感覚を持ちながら授業を受けられることには、大きな意味があると感じています。
人は、まったく理解できない状態よりも、「分かる」「できる」と感じられる環境の中にいるときの方が、安心して学びに向かうことができます。
そして、その安心感は、発言する勇気や、新しいことに挑戦しようとする気持ちを支えてくれます。
もちろん、すべてを知っている状態で授業を受ける必要はありません。
けれども、学びの大部分を理解できる状態にあることは、子どもの自己効力感を育てるうえで、とても大切なのではないでしょうか。
本当に子どもを苦しめるのは、「知っていること」ではなく、「分からないまま時間が過ぎていくこと」なのかもしれません。
分かることの積み重ねが、「自分は学べる」という感覚を育てていくのだと思います。

現在の学校教育では、主体的に学ぶ姿勢が重視され、子ども同士の話し合いの場面も多く見られるようになりました。
自分の考えを言葉にし、他者の意見を聞きながら理解を深めていく学びは、とても大切なものです。
けれども、その土台となる知識や理解が十分でなければ、話し合いに参加すること自体が難しくなってしまうこともあります。
分からない状態のままでは、自分の考えを持つことも、言葉にすることも容易ではないからです。
主体的に学ぶためにも、まずは「分かる」という感覚が支えになっていることが大切なのではないでしょうか。
主体性とは、何もないところから生まれるものではなく、「分かる」という実感の上に育っていくものなのかもしれません。
「分かる」経験の積み重ねが、子どもに学ぶ自信を与え、自分から学ぼうとする姿勢へとつながっていくのだと思います。
まとめ|子どもが「学べる状態」でいられるように

勉強が分かる子どもと、分からない子ども。
その違いは、生まれ持った能力だけで決まるものではありません。
子どもが安心して学びに向かえる状態にあるかどうか。
その土台こそが、学びを支えているのだと思います。
分からないまま時間を過ごすことは、子どもから少しずつ自信を奪っていきます。
一方で、「分かった」という経験は、次の一歩を踏み出す力になります。
だからこそ大人にできるのは、先回りして教え込むことでも、ただ見守ることでもなく、子どもが理解にたどり着くまで伴走することなのでしょう。
ときには手を差し伸べ、ときには任せる。
その繰り返しのなかで、子どもは少しずつ「自分から学べる状態」へと育っていきます。
子どもがこれから出会う学びの時間が、苦しいものではなく、「分かる喜び」に支えられたものであるように。
その環境を整えていくことが、私たち大人にできる最も大切な関わりなのかもしれません。

