テストを隠す小学生の心理|小学2年の私がテストを捨てたあの日

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小学生の頃、テストを親に見せられず、隠してしまった経験はあるでしょうか。

あるいは、わが子がテストを出してこないこと、隠すことに、不安を感じている保護者の方もいるかもしれません。

私は小学2年生のとき、テストを教室のゴミ箱に捨てました。

あのときの自分の気持ちを振り返ると、なぜ隠したのかを、今なら言葉にできます。

大学英語講師はむ先生

英語講師の「はむ先生(村上里実)」です。教歴は15年、大学で非常勤講師を務め、第二言語習得を専門としています。

教師であり、親でもある立場になった今、強く感じていることがあります。

子どもは、ときに「自分の考え」を言葉にできません。そして、何が分からないのかすら、自分では分かっていないこともあります。

その戸惑いが、ときにテストを隠すといった行動として表れることも。

だからこそ、大人の関わりがとても大切になると考えています。

勉強が分からないまま教室で過ごす子どもが何を感じているのかについては、こちらの記事で詳しく書いています。

タップできる目次

小学生でテストを隠す理由|子どもだった私が考えていたこと

子どもがテストを隠すとき、そこにはどのような気持ちがあるのでしょうか。

小学2年生だった私は、いけないことだと分かっていながらテストを捨てました。

なぜそのような行動を取ったのか、あのときの自分を振り返ってみたいと思います。

テストを隠すことはいけないことだと知っていた

子どもがテストを隠したら、親としてどのように対応したらよいのでしょうか。

私にも小2の息子がいます。

もし同じことをしていたと知ったら、親としてきっと悩むでしょう。

テストは隠すものではないと、叱ろうとするかもしれません。

しかし、小学2年だった当時の私は、テストを捨ててはいけないことはもちろん分かっていました。

ごみ箱に捨てれば、そのまま焼却炉で燃えてなくなる。

そう考えての行動でしたが、ばれたら怒られるだろうことも想像できていました。

いかに親に知られないようにするか、それだけを考えていたように思います。

親の期待に応えられていないことを分かっていた

私は、当時一般的だったピアノやお習字、水泳などの習い事をしていました。

特別教育に熱心な家庭で育った訳でもなかったと思います。

小学校入学までに、ひらがなとカタカナが書ければよいといったくらいの考えだったのだと思います。

あとは、学校の授業を通して自然に身に付くだろうと考えたのでしょう。

けれど、小学校に入学し勉強に苦戦しました。

そういう姿を見ているうちに「できた方がいい」という思いへと、変わっていったのだと思います。

私はそうした親の考えの変化を、敏感に感じ取っていました。

私が期待にそぐわない結果を出していることは、子どもながらに分かっていました。

とはいえ、小学校に入学しても、家庭での勉強が習慣化していた記憶はありません。

時折、対処療法的に、勉強が生活の中に取り入れられていたことはありました。


小学校でテストを捨てたとき、担任の先生に「どうしてそんなことをしたの?怒られると思ったの?」と尋ねられたように記憶しています。

そのとき私は何も答えられませんでした。

ただ黙って泣く私に、先生はきっと戸惑われたと思います。

自分でも理由が分かりませんでした。

怒られるわけではなかった。
でも、きっとがっかりされる。

当時の私は、そんな親の顔を見たくなかったのだと思います。

帰宅が遅くなったその日、心配した母が途中まで迎えに来てくれていました。

そこで何が起こったのか話せないまま、嘘を重ねてしまいました。

「なぜ自分だけ分からないのか」が分からなかった

当時、私は学校の勉強がよく分かりませんでした。

この点は、当時を振り返り母と話していても、親の記憶と、私の記憶にずれがある部分です。

母は「文字も書けたし、読めたし、特に問題はなかった」というような言い方をします。

でも、実際はそうではありませんでした。

「どうして周りの子は分かるのだろう」と、何度も思いました。

国語の教科書をスムーズに読めず、こそあど言葉はちんぷんかんぷん。

算数でも時計の読み方につまずき、簡単な計算も手を使わないとできませんでした。

親や先生に「分からない」「困っている」と言えばよかったのかもしれません。

でも、どう言えばいいのかも分かりませんでした。

幼かった私は、助けを求める方法をまだ知らなかったのです。

小学生がテストを隠す|私を救った先生の存在

あのときの私にとって、学校は決して楽しい場所ではありませんでした。

勉強が分からないまま過ごす教室は、ときに不安の多い場所でもありました。

そんな中で、そのままの私を受け止めてくれる先生がいました。

先生との出会いが、子どもだった私を確かに支えてくれていました。

そのままを受け入れてくれる先生の存在に救われた

テストを捨てたことは、掃除の時間に見つかり担任の先生に知られました。

私はとても静かな子どもでした。

先生は、親へ伝えることはありませんでした。

「自分で言えるかな?」
そう私に任せてくれました。

この出来事を、親が知ることはありませんでした。

それでも、先生に責められることも、否定されることもありませんでした。

1、2年生で担任をしてくれたその先生は、その後もずっと私を見守ってくれていました。

そこにいてくれるだけで、安心できました。

私にとって、評価をしない大人の存在は大きな支えでした。

親が悪かったとは思わない 親の期待に応えたいのが子ども

大人になった今、親を責める気持ちはありません。

愛情をもって育ててくれていたことは、よく分かっています。

ただ私は、親だけでなく他人の思いを敏感に感じ取る子どもでした。

言葉にされていることはもちろん、言葉にされない期待までも、感じ取っていました。

大人の何気ない言葉の奥にある思いまで、子どもなりに受け取っていました。

揺れる気持ちを抱えながらも、それでも、親の期待には応えたいと思いました。

「どうして自分はこんなにだめなんだろう」
そんなふうに思うこともありました。

ただ、私も子を育てる親となり、親の期待は決して特別に重いものではないと分かります。

いつも100点を取ることを求められていたわけではありません。

でも当時の私にとっては、その親の抱く普通の期待に応えられないことは、とても大きなことのように感じていました。

見捨てられてしまうのではないか――そんな不安がありました。

当時の私を救えたのは「勉強が分かる」こと

当時、先生の存在は、そのままの私を守ってくれる大切な居場所でした。

でも、状況そのものを変えたのは、「勉強が分かるようになること」だったと思います。

理解できることが増えると、自分はできるかもしれないと思えるようになります。

不思議と、前を向けるようになります。

私に必要だったのは、共感の言葉でも、励ましでもありませんでした。

私は、皆が分かることを、分かるようになりたかったのです。


その後、私は中学受験に向かうことになります。

学外での学習量が増えるにつれ、学校の授業も理解できるようになっていきました。

ただ、受験の成績は芳しくないままでしたので、母は気をもんでいたことでしょう。

そんなある日、母に「あなたは大器晩成だもんね」と言われました。

ほっとしたのを、今も覚えています。

あのとき私は、まだ見捨てられていないのだと感じたのだと思います。

そしてそれは、「できない今の私」ではなく、これからの私を信じてもらえていると感じられた瞬間でもありました。

テストを隠した小学生だった私が考える、家庭でできる学習支援

あの頃の私は、決して特別な子どもだったわけではありません。

勉強につまずき、不安を抱えながらも、それをどう伝えたらよいのか分からない——ただそれだけの、どこにでもいる子どもでした。

テストを捨てるという行動に出たことは、少し極端だったのかもしれません。

それでも当時の私には、それ以外の方法が思いつかなかったのです。

もしかすると、あの頃の私と同じように、どうしたらいいか分からないまま困っている子どもが、今もどこかにいるのかもしれません。

テストを隠した小学生だった私の経験から、家庭でできる学習支援について考えてみたいと思います。

低学年の子どもは「助けて」と言えない

幼い子どもは、困っていても、その状況をどう解決すればよいか分かりません。

大人とは違い、自分の気持ちを言葉にするための語彙も、表現も、状況を打破するための知識も十分ではありません。

だからこそ、子どもの「おや?」と思う行動は、すでに一人で抱えているのかもしれないサインだと想像してみてほしいと思います。

「小学校の勉強なんて、そのうちできるようになる」という声もよく聞きます。

たしかに、その通りかもしれません。

ただ、想像してみてほしいのです。

先生の言っていることがよく分からないなかで、毎日授業を受けていても、ちっとも面白くありません。

勉強は、分かるから面白い。

できるから、頑張ろうと思えるのです。

気づいてくれる大人がいることは、子どもにとって大きな安心になります。

低学年の勉強は、誰でも支えられる

「自分は勉強が苦手だから教えられない」と感じる保護者の方もいるかもしれません。

私の親の口癖でもありました。

けれど、低学年の学習に特別な知識は必要なく、毎日の積み重ねで、誰でもできるようになる内容ばかりです。

  • 国語の教科書が理解しにくい場合、文章を聞く経験がまだ十分でない可能性があります。簡単な絵本から、読み聞かせをしてみてください。図書館で子どもの興味のある本を一緒に選び、読み聞かせる時間を持つのもよいでしょう。
  • 子どもが自分で文章を読めないときには、音読に取り組むことも大切です。1年生の教科書から、スラスラと読めるようになることを目指して、毎日少しずつ練習していきましょう。読書習慣づくりには、ヨンデミーのようなサービスを活用するのも一つの方法です。
  • 漢字が書けないときには、まず読めるかどうかを確認します。読めないものは書けません。覚え方も、子どもの得意な学習方法に合わせて選ぶとよいでしょう。たとえば、唱えて覚えるミチムラ式漢字カードのような教材も役立ちます。
  • 算数の計算は、自然に答えが出るようになるまで繰り返し取り組むことが大切です。最初に時間がかかるのは当然です。毎日取り組めば、徐々に早くなります。計算練習の習慣化には、そろタッチのような教材を取り入れるのもよいでしょう。

大切なのは、特別なことをすることではなく、子どもが「分かる」という感覚を少しずつ積み重ねていくことなのだと思います。

必要な取り組み量は、子どもによって違います。
数回でできるようになる子もいれば、何十回と練習が必要な子もいるでしょう。

自分がどのようなタイプかを知ることも、学びの一つです。

また、子どもにとって、ひとりで計画を立て、目標に向かって取り組むことはまだ簡単ではありません。

だからこそ、親子で計画を立てて取り組む経験そのものが、物事を順序立てて進める力を育てていきます。

何を学ぶかだけでなく、どのように考えるか。
その姿勢もまた、少しずつ身についていくものです。

そして、「一緒にやってくれている」と感じられることは、子どもにとってそれだけで大きな支えになります。

「そのうち分かる」を待つことは、本当に優しさか

子どもの成長を信じて待つことは、決して悪いことではありません。

けれど、待っているあいだに「分からないまま取り残される子」がいることも事実です。

取り残される時間が長くなるほど、追いつくまでにも時間が必要になります。

水泳に例えると、イメージしやすいかもしれません。

中学生からでも泳ぎの練習は可能です。
でも、小学生の中にひとり混じって、ゼロから練習することに抵抗のない人はいないでしょう。

優しさとは、ただ見守ることだけではないのかもしれません。

ときには手を差し伸べること。

分かるところまで伴走すること。

それもまた、優しさのかたちなのだと思います。

子どもを育てているのは、親だけではないということ

親になった今、子どもの頃を振り返ると、強く感じていることがあります。

子どもは、親ひとりの価値観だけで育つものではないということです。

先生の存在。友達との関わり。周囲の大人のまなざし。

私もそうした多くの支えの中で、少しずつ育ってきました。

だからこそ、親だけが背負いすぎなくていい。
そして、子どもだけに頑張らせなくてもいい。

私はどちらかというと、周囲に合わせようとする敏感な子どもだったのかもしれません。

あまりに周囲に合わせて過ごしていると、自分が何を好きなのか、何をしたいのかすら分からなくなります。

やがて、何が食べたいのかさえ言えなくなってしまうこともあります。

相手に合わせることが、いつの間にか選択の軸になってしまうのです。

子どもの意思決定は、ときに大人から見ると間違っているように思えることもあるでしょう。

遠回りに見える道を選ぶこともあるはずです。

それでも、子どもが自分で決めるという経験そのものが、大切なのだと思います。

大学で学生と接していると、周囲が見えすぎてしまう若者が少なくないことに気づかされます。

私が、周囲に期待される自分ではなく、本当にしたいことや言いたいことを言葉にして生きていこうと思えたのは、親元を完全に離れた30歳を過ぎた頃からでした。

相手の気持ちを読みすぎないことを意識し、自分が疲れてしまう環境に身を置くこともやめました。

すると徐々に、自分の好きなこと、やりたいことが分かるようになったのです。
自分の考えを、言葉で相手に伝えられるようにもなりました。

大人がそれぞれの立場で手を差し伸べること。

それが、子どもを孤独にせず、ひとりの人として大切にしながら、あたたかく見守ることにつながっていくのだと思います。

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